公益財団法人かかみがはら未来文化財団

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〈機関紙/対談企画〉奥村晃史×宮原剛×豊田純「歴史的建造物とアートの融合性とは」

2024.03.30

機関紙NO.4の中面で特集している、奥村晃史先生、宮原剛先生、豊田純さんによる対談企画「歴史的建造物とアートの融合性とは」。紙面ではお伝えできなかった、3人の仕事や文化に対する思いをご紹介します。


年末のとある日。
アート企画展でお世話になった、画家の奥村晃史先生と宮原剛先生、そしてお二人と親交のあるギャラリー水無月の豊田純さんによる座談会を行いました。忘年会の時期というのもあり、各務原のローカルを感じられるお店・ギフ屋さんを会場としました。

ー3人の関係性について

豊田「奥村くんとは2003年くらいかな。当時アクティブGにあった県民ギャラリーで、岐阜でくすぶっている若手アーティストを表に出すために展覧会をやろうとしていて。展示だけではなく作品を売ることも必要だからと、僕も当時30代で若い画商として呼ばれたんです。」
奥村「僕も立ち上げのメンバーで、顔合わせ会で豊田さんと出逢いました。」
豊田「奥村くんの絵は知っていましたが、直接会ったのはこの時が初めてでした。」
奥村「この頃に心境の変化があって。貸し画廊の個展は自分でできますが、画廊の企画展にはあまり声をかけてもらえなくて。 企画展に声がかからないならもう辞めようかぐらい考えていた 時に、豊田さんから今の画廊に移転するから展示をしないかと声をかけてもらったんです。」
豊田「移転する場所に一度観に来てくれたんですよ。」
奥村「年齢も同じで、これからやっていこうとする画廊と、もう一段頑張っていきたい画家。タイミングと利害が一致したんです。」

奥村「宮原くんは…?」
宮原「大学院卒業後にいた研究室で、よく日本画の長谷川 喜久先生の手伝いをしていました。そのとある打ち上げの時に奥村さんと出逢いました。その翌年にアトリエを自宅に移したのですが、ある日、奥村さんから電話がかかってきてコバルト展に声をかけてもらったんです。長谷川先生の教えなんですけど、作家活動を始めたばかりの頃だったので、声がかかった時はすぐにOKをだしていました。」
奥村「たしかに、返事は早かった。宮原くんは、学生の時に日展で特選を取っていたし勢いがあったんだよね。」

ー宮原先生の特選を受賞した時の話へ

豊田「学生で特選取ったのは何年ぶり?日展で学生が特選を取ったって当時話題になったんですよ。」
宮原「当時は、電報がたくさん届きました。特選を受賞するとこんなことになるんやと思いました。」
豊田「この人の凄いところは、その後に落選し続けたところなんですよね。」
宮原「地下アイドル時代みたいな日々で、本当にきつかったです。若い時に特選を受賞したばかりに、色んな人に嫌われてしまって、病みましたし、大学を辞めようと考えた時期もありました。その中でも、奥村さん、純さん、恩師の長谷川先生も頑張れと支えてくれて、画家として続けることができました。そのおかげで(特選受賞から)4年ぶりに日展に入選できたんです。その頃から、今後の作家像を考えるようになって、奥村さんのターニングポイントじゃないですけど京都にある日本画の画塾にお声がけいただいたんです。長谷川先生の勧めもあり画塾に入り活動の幅が広がりました。」
豊田「長谷川先生は、必ずターニングポイントの中心に居る人だよね。」
奥村「どうしても出会ってしまう人ですね。」

ー本来アートを飾る場所ではない、文化施設を活用した作品展を開催することについて


奥村「ずっとやりたかったんですよ。村国座は心の故郷のような存在で、平成19年の改修後に落語を観た時に、今使わないと誰が使うのと思っていました。展示イメージはできていなかったけど、壁に飾るものとは違う感じにしたくて。村国座という場所は、面白い絵がちゃんと展示できれば、相乗効果や化学反応が起き、成功するなと確信していました。」
豊田「奥村くんと一緒に展示をやることが多いから、僕が(村国theミュージアムを)仕掛けていると思ったお客さんもいて、あれは奥村くん一人の手柄なんですって何人にも言ったんだよね。」

奥村「展示は1点突破で、感覚に従って絵を並べたり、照明を調整したり、案内状にしても、1つのイメージから離れないようにしました。市外県外の人が来た時に、村国座と一緒に僕の絵が記憶のインパクトとして残れば、化学反応が起こると思っていたことが、実際にやってみて確信から確証になりましたね。」
豊田「二人ともさ、釘が打てない会場でよく綺麗にまとめたよね。」
宮原「入口から奥村さんらしくて、さすがやなと思いました。(奥村さんの)自己プロデュース力をリスペクトしています。僕は作り手ですけど、観るのも好きなんですよ。」

宮原剛展 日々、記すもの。
2023年秋、宿場町の風景を現代に伝える中山道鵜沼宿脇本陣を会場に、宮原さんが日々の記録を残すようにして制作した作品を展示しました。高さ2メートルを超える大型作品をはじめ、モチーフも大きさも様々な日本画が和の空間を埋め尽くす非日常的な空間ができあがりました。

宮原「正直、奥村さんの展示を観に行った時は他人事でしたが、実際に自分が企画展をやるとなるとすごいプレッシャーでした。奥村さんと同じ感じは無理だなと。だから、DM作成時から、逆にシンプルにいきたいなと思っていました。」
豊田「シンプルにいってたけど、俺が聞いたところによると、あのスーパーボウルすくいの絵の下に水を張りたいとか言うてたよね。」
宮原「前年度が奥村さんだったから意識しちゃうじゃないですか。なんか面白いことしたいなって。僕が考えた面白いことは大体却下されましたけど(笑)でも、色々考えるのは楽しかったです。」


奥村「鵜沼宿についてはどう思ってたの?」
宮原「今回の展示で初めて訪れましたが、(条件が)限られたとこだなと思いましたね。ピンが打てなかったりハードルはありましたが、最初に感じた勢いで展示をしようと思いました。」
奥村「展示方法は最終的に良かったよね。作り手はそんなに気にしてないかもしれないけど、そもそも日本画は下に置いて描いているから床に置いた展示方法は良かったよね。」
豊田「みんな描いている時は、あの目線で見てるわけだからね。」

宮原「あと、奥村さんも言っていましたがライティングも大変でしたね。」
事務局「たくさん行燈たてましたよね。」
宮原「夕方になるとすごく暗くなって作品が見づらくなるんです。でも限られた条件でやるのも面白いですよね。」
奥村「結局、ライティングさえ自在に操れれば、どこでも展示できますよね。」
宮原「個人的に魅力だったのは、今まで脇本陣では大きい作品を展示したことがなかったことです。初めてっていうのが大好物なので。」
奥村「見に来る人にとっても特殊な体験になるよね。」
豊田「僕自身も脇本陣を知らなくて。宮原くんがやることで存在を知ることができるのがいいよね。」
奥村「作家のキャリアとしても、いつもと異なる場所で個展をしたというのはいい経験になります。」

ー公立美術館がない各務原でのアート活動について

奥村「我々みたいな絵描きは社会的な信用があまりないので、”公共”がワンクッション入ることで怪しい人でないと知らせられるんですよね。訳の分からないものを整理して、市民に伝えることが公共の大切な役割だから、市に美術館があるとかないとか関係ない気がします。」
豊田「文化を育むためには教育が大事で、大人だけの楽しみでやるんだったら画廊とか百貨店だけでいいんです。親が会社員だったら、大人は会社に勤める以外の選択肢はないと思う子どもも多いと思います。『こういう仕事もあるんだよ』と伝えることが必要だと感じています。僕も母親が絵の世界で働いたので、世の中のお母さんは全員絵を描く人だと思っていました。」

豊田「僕は、岐阜県全体で強いコンテンツとしてアートがあると感じています。全国区の美術雑誌でも、年1回は岐阜特集をやりますから。 絵描きも、作家さんも、画商の数も、岐阜の規模ではありえないくらい存在するんです。 」
奥村「岐阜の画商は、全国を相手に商売しているから成り立っているんですよね。焼き物や和紙とかもあったりするので他県より割合が多くなってますよね。」
豊田「子ども達が文化的な脳みそになって見方や目標が変わると、大人へ成長して作家や商人になった時に、凄い人が出そうな気がします。美術と言ったら岐阜だよね、と将来的に言われるようになれば嬉しいです。」
宮原「秋に開催した講座の時、高校生の子が来てくれて、日本画を実際にやってみて興味を持ってくれたんです。学校などとタイアップした授業がきっかけで、子ども達の将来のビジョンの中に文化的な職業が選択肢に入ると嬉しいですよね。」
奥村「大事だよね。作家を目指す人であれば発表やサポートの場など、のびのびと美術ができる環境があるといいですよね。子どもに対しては作品に触れる機会をつくったり、美術全体を後押しできればいいなと思いますね。」

ーあなたにとって文化とは? 

宮原 剛

宮原「20年くらい高校生に美術を教えている中で、生きていく上でアート的な部分が必要だと感じるようになりました。受験やテストとかで頑張ってる子が、逃げ場のように保健室や美術室を訪ねてくることがあって。僕は勉強は教えられないけど、他にも選択肢があることは伝えられると思うんです。最初は卒業するのも厳しかった子が大学に進学できたこともありました。 僕がやってることはアウトサイド的なことだと言われます。」
豊田「アウトサイダーってよりかはマイノリティだよね。」

宮原「僕も勉強できた口じゃないし、学校行きたくない時もあったので。 将来的には、もしかしたら特別教科で学んだことの方が、生きる上では大切で必要な場面が出てくるかもしれません。」
奥村「必要なんだと思う。」
宮原「僕は作家という視点だけではなく教師という視点もあります。だから、高校の授業の中だけでは深くは伝えられないけど、子ども達の選択肢の一つとして文化が入るといいなと思っています。」

奥村 晃史

奥村「文化って言うと、高尚だとか、余剰部分だとか、人間の活動の中で プラスαみたいなイメージがあるかもしれません。でも実際は、人が生きてる中で1番生々しい部分が、アートや音楽といった文化の言葉の中で重なっていると思います。例えば、無人島に流れ着いた時に、どのように生きていくかを考えられるかどうかが文化だと思うんですよ。だから、僕は自分の活動がマイナーだとは思わないし、むしろメインストリームのような、誰もが共感でき、同時に楽しめて、苦しめる。共感の中で存在してるものだと思うんです。僕は絵を1人で描いている気はしないんですよね。文化の土壌があり、みんなも知ってるから、僕は絵を描いていられると思うんです。文化はよく分からないからと後回しされるのは勿体ないし、 歯がゆいです。みんな(文化に)救われた経験があると思うんですよ。だから文化をどういう形で、次に繋いでいくか真面目に考える必要があると思います。文化なしで生きていくなんて無理なんです。」

事務局「昨年の展示の時、奥村先生の言葉で『(アートは)エンターテインメント』というのが記憶に残っています。」
奥村「僕がエンターテイメントと言ったのは『共有感』なんです。展示することでうまれる”作家”と”来場者”との共有空間に価値があると思います。展示したものを観るだけではなく、その人にとって”面白い出来事”になることが、僕にとっても面白い。交通事故じゃないけど、ぶつかることで合わさるような感じです。表現を勝手に1人でやっていたら終わってしまいます。僕は共有を求めてる側でもあるので、僕の考えるアートを持っていき、観る人の価値観が、揺らいだりプラスαとなる一つにはなりたいと思ってね。アーティストは好き勝手にやっているように見えるかもしれないけど、常にエンターテインメントの一員として機能すべく努力している。それはアートに限らず、話したり、表現したり、あるいは受け手側にとっても、言語とは違う、人間同士のやり取りの一つ、それが文化なんじゃないかな。」

豊田 純

豊田「僕の核心的なところで言うと、文化で必要なのは『物語』です。美しかったり、驚くような物語 だと文化的な価値が少し上がるんですよね。奥村さんも宮原さんも、生涯で作る何百もの作品の中には、マスターピースと呼ばれる作品があり、そこには物語があるんです。  物事の本質を見なさいと教える先生もいますが、例えば、ハイブランドのバッグがなぜ高価で売れると思いますか?5千円のバッグと30万円のバッグ、素材も機能も全て同じならばバッグとしての本質に差はないはずなのですが、ハイブランドのバッグが高値で販売できるのは、ブランド自体に物語があり、購入者が身に付けた時の高揚感を想像できるからです。時代の洗礼を受けているんです。」
奥村「時代の洗礼はあるよね。」

豊田「文学だと、僕は30年以上前の本を普段読んでいます。多くの作品が生まれている現代で、ものすごい厳しい30年の目線をかいくぐって勝ち残った一品だと思ってるから。作品たちは作家や所有者の手を離れ、いろんな物語を紡ぎ、名声をあげる物語を身につけることができる。僕の場合は芸術文化が一番身近ですが、やっぱり物語がいいですね。」
奥村「同時に見る人が、物語の一部になるかもしれない。」
豊田「そう!作家が生み出すんだけど、文化的に高めていくのはオーディンスなんですよ。一方で、この作品でいいところなんですか。って 言われて、一言でまとめさせようともするんですよ、しょうがないけど。「ほんとに絵が好きで。」というお客さんもいれば、「この人有名?」と聞く人もいる。いろんな人がいるからこそ作品にまつわる話がいっぱい増え、どんどん価値は大きくなります。人間の脳みそは優秀で複雑だから、 作品の価値を1個だけではなく、全部すぐに見分けれるようになります。ミッキーマウスも、その恰好に本質があるわけではないですよね。プリントされたミッキーマウスと、 直筆のミッキーマウスは何の差もないですよね。でも、どっちが欲しいって言われたら直筆ですよね。ウォルト・ディズニーが手で書いたっていう物語に本質があるんじゃないですか。」
奥村「でも、子供はそっち選ばないと思う。プリントされたのがミッキーだと言うんじゃないかな」
豊田「そうだね、綺麗で発色いいし。みたいになケースもあるわけですよ。 でも、大人になって文化を楽しむとなると、どうしても本質まで考えてしまいますよね。」
宮原「今日一番いい話をきいた!先輩たちも、1枚の作品の中にも物語を作らないと、観る人に訴える力が弱くなるとよく言っていました。」
奥村「物語の価値を生み出すのも人であり、 一方でフィルター的に消えるものを決めるのも人であり、周りの人の責任。文化をどのように見るかで 全然変わってきますよね。」
豊田「そう!作家が生み出すんだけど、文化的に高めていくのはオーディエンスなんですよ。上手く紡いでいけば、凄いものが生まれるんです。」

アート企画展について

文化財団では、本来アート作品を展示する場所ではない、地域にゆかりのある文化施設等をアート展示会場として活用していく事業を行っています。公立美術館のない各務原市だからこそ、柔軟にアートを身近に感じられる場所を創造していくことを目的に、2022年は国指定重要有形民俗文化財の村国座にて「奥村晃史展 村国theミュージアム」を、2023年は中山道鵜沼宿脇本陣にて「宮原剛 企画展 日々、記すもの。」を開催しました。

プロフィール

奥村晃史
1972年各務原市生。家畜などの動物に人間像を重ねる独自の世界観で油彩絵画作品を制作している。各務原市上戸町のアトリエで制作し国内外の画廊、百貨店、アートフェアで個展を開催。
宮原剛
在学中の弱冠23歳にして日展特選(初入選)という鮮烈な受賞歴から日本画家としてのキャリアをスタートさせ、現在に至るまで精力的に活動を続けている。日展準会員、新日春展会員、帝京大学可児高等学校・長良高等学校美術講師。キン肉マンが大好きで、飼っている美濃柴犬の名前は“スグル“。
豊田純
岐阜市にあるアートギャラリー水無月の代表。絵画、陶芸を始め、複合的なコンテンポラリーアートまで、様々な世界を楽しむ場をご提供する為、ジャンルを問わず作品の展示を行っている。

会場

ギフ屋
JR那加駅から徒歩3分、本町通りから西に歩くとひっそりたたずむ、約70年続く食堂。暖簾をくぐるとカウンターに10品以上もの大皿に乗ったメニューが並ぶ。どこか懐かしい、家族で営む昔ながらのまちの食堂。